人にものを教えること

なんか3か月前の下書きの記事が忘れられてたからアップしちゃえ。

読み返してないから変な文章になってるかも。

 

何故かまた新しい環境での労働に身を置いている。

で、覚えることを覚えなきゃ仕事にならないという訳で今は教育プログラム中。

しかし、そこでの教え方が非常に分かりづらい。何でこんなに分かりづらいのかというぐらいわかりづらい。まぁ内容自体が複雑というのもあるのだけれど、それを抜きにしてもひどい。という訳で、分かりづらい理由を分析して、どうしたらわかりやすくなるかというのを考えてみたのを書いておく。

 

最初に私が今受けている教育を大雑把に説明する。内容は装置の組み立てである。実験室にあるような実験装置を企業で使えるように組み立てる仕事と思ってもらえればよい。

まず、私には装置組み立ての知識は全くの皆無である。そもそも企業が扱っているものに関して知識や経験があるとすれば、同業他社からの移籍に他ならない。それならそもそも教育などというものは、ほぼ不要か大した手間は無い。

 

私が今教育を受けていて、一番大きな問題だと感じるのが、

今説明されている事柄に関して、前提の知識や別の知識を要求する説明をする、ということである。

はっきり言って教育手法としては最悪だと感じる。

 

  

 

 

まず物を教えるということ(教育側)の前に、物を理解するということ(被教育側)はどういうことか、ということを定義する。

この、物を理解するというのは、被教育者が教えられた事柄を自分の言葉で言い換えて説明できるということである。昔からよく言われてる話だ。

では、自分の言葉で言い換えるにはどうすればいいか?という話になる。

これのアプローチには2つあって、演繹的に進めるか、帰納的に進めるかである。

大雑把に説明すると、演繹的とは普遍的な事柄から個別の事象に当てはめること。帰納的とは個別の事象から普遍的な事柄を求めること、という感じである。

分かりづらいので微分法を例を挙げると、演繹的とは、x=xとx=Δxのf(x)の値を引いてΔxで割ってΔx→0として求めるという説明を聞いて微分する方法。学校で一番最初に説明される奴だ。帰納的とは、y=2xを微分するとy´=2になる、y=2x^2を微分するとy´=4xになることから微分の法則を求めることだ。

もちろんわかりが良いのは帰納的手法である。ただし、この方法で普遍的な事象を求めるのは難しい。(上の例の続きで言えば、ではy=sinxの微分はどうするのか?ということは求められない。できるのはせいぜいy=ax^bがy´=abx^b-1になるということである。)

しかし、せいぜい社会で一般的に生きる程度の知識であれば帰納的手法でおおよそ問題ないであろう。一般的な労働程度で演繹的手法を用いられてもまともに使える人間なんてほとんどいない。

ここからは、学習は帰納的に行うのが効率的であるという前提で話を進める。

 

と思ったけど続きはまた今度。